要は『美女と野獣』のパロディ
私の最初のミアルバ二次創作小説『Beauty and the Griffin』です。
冷や汗が止まらないことに、最初はこの小説のタイトル『感性的認識批判 Beauty and the Griffin』にしてました。本当は漢字タイトルの方が好きなのですが、中身に対してあまりにもタイトルが不遜で大きすぎるな……と、うろたえ、及び腰になり、『美女と野獣』のパロディを示唆した英語のタイトルだけにしました。
原作を読んでいて、ミーノスの悪性の強い性格と、正義感の強いアルバフィカが恋愛をするのはとても難しいと感じており。アルバフィカが応じないとミアルバとして恋愛成立しないので、そこはミーノスに変化を求めるしかありませんでした。
でもどうやって。
というところで、ミアルバには、「美人」「薔薇」「城に囚われ」「(心の)醜い男からの求婚」のワードが揃っていることに気づき、「これは『美女と野獣』を下敷きにできる」と。
なので、私の二次創作小説も、展開は「出会う」→「囚われる」→「仲良くなる」→「揉める」→「探しに行く」→「恋人同士になる」で、あらすじ的には『美女と野獣』を大筋でトレースしています。
ミーノスは『美女と野獣』のように呪いで醜くなっているわけではないので見た目が変化することはないです。ただ、一説によると、「好きな相手の容姿はとてもよいものに見える」というのがあるので、アルバフィカも最後にミーノスへの愛情を自覚したときに「この人はとても美しい人だったんだ」と述懐します。
私的には、そこが好きな場面です。
アルバフィカは、容姿の美しさを言われるのを嫌っていましたが、自分もまた他人の美しさを「よいもの」として心惹かれる体験をしたらいいな、と、思って。
もうここまでで十分お腹いっぱいではあるんですが、私、さらにもう一声、この作品に込めたいものがありました。
近代美学も下敷きにしたい
ばかですね、私。
なんというおそれおおいことを。
18世紀欧州は私にとって、特に勉強したい時代なのです。理由はこの時代の欧州の思想も文学も突出して好みであり、そして一般に優れたものが多いといわれているので。
そんなわけで、ほんの聞き齧りレベルではあるものの、読んだ本も何冊か増えて来たのでいってみるかということで、近代美学の歴史と、ミーノスとアルバフィカの恋愛成就までの過程を重ねました。ばかは思いつくことが身の程知らずに壮大です。正確とはいえないと思うので、ほんの遊びですが。
- 本編のあらすじ
(0)ミーノスがアルバフィカをよみがえらせる。
(1)ミーノスの城から出られない。
(2)ミーノスは求愛を繰り返す。
(3)アルバフィカは拒否を繰り返す。
(4)ちょっと仲良くなる。
(5)こじれる。
(6)仲直りして恋愛成就。
2.『美女と野獣』のあらすじのトレース
本編は「美女と野獣」の読み替えになっています。
(1)美女が野獣の城から出られない。
(2)野獣は求婚を繰り返す。
(3)美女は拒否を繰り返す。
(4)だんだん仲良くなる。
(5)帰る約束で城を出て帰るのが遅くなる→城が廃墟に。野獣も死にかけ。
(6)美女が野獣の求婚を受けると、野獣は美形王子に変身し城も蘇る。
3. プラトンから18世紀のバウムガルテンとカントへ
(0)プラトンから西洋哲学が始まる。
(3)(4)プラトン『饗宴』
美は善に至るためのもの。善と結びつくもの。
(5)バウムガルテン『形而上学』『美学』(=「美学」の誕生)
人間の限定的な知性と感性において美は感性により認識される。
(6)カント『判断力批判』
美は(他から)自律しそれ自体が哲学(美学)足りうる。
(真善美に導くための役割ではない)
つまり、ミーノスが近代美学の擬人化で、アルバフィカが古代ギリシア的美の概念の擬人化です。
近代美学がプラトン批判をその末に乗り越えて行く話と、恋愛の成就を重ねられたら、という着想からこういう形式を想定しました。
アルバフィカの美のイメージはプラトンのように「総合的な人としての完全を目指す」もの。
ミーノスは、個人が感性によって感受する主観的な美しさに重きを置いています。
アルバフィカは、ずっとミーノスの人柄をよくないと思い続けて、恋愛の対象なんて真っ平だと考えています。しかしながら、ミーノスはアルバフィカの美だけを追い求めていたはずが、変化していきます。なぜなら、人は美しさだけで他人を愛し続けるのは困難だから。美をきっかけに相手を眺め続ければ、どうしても人柄に触れますし、その人柄が好もしいものなら、そこから愛情は発生する。
──逆にいえば、見た目の好みだけでその人と親密になるのには限界がある、という話でもあります。
では、どうしてミーノスに愛情が発生するかといえば、それは、表題のセリフです。
アルバフィカは、20世紀の魚座の黄金聖闘士アフロディーテの先代です。
アフロディーテはその名もギリシア神話の美の女神から取られていますし、魚座の伝説も美の女神に関連したものです。
そのため、アルバフィカはそもそもが美の女神をモデルにした人物といえます。
この場面、ギリシア神話上の美の女神の名を出すべきだったのですが、ローマ神話の「ウェヌス」にしました。ギリシア神話だと「アフロディーテ」と被って誤解が生じますし、英語の「ヴィーナス」は日常的な言葉なので直接的すぎます。
つまり、「美の女神を元ネタに持つアルバフィカは、美の女神の本質を持ちうる」というイメージからの発展です。
これは象徴的な表現ですが、要は、美しさをきっかけとして他人に関心を持ち、見ることで美しさを享受することは、その人自身を知り、その人自身を愛するきっかけ、という話です。ごく普遍的な、恋愛の始りですね。
美の女神の本質に目で触れることで、ミーノスは、ありえなかった愛情を発生させた。
愛情がしっかりあるので、ミーノスの倫理に反する振る舞いやものの考え方は、少しずつ変化せざるを得ない。まあここはうまく書けませんでしたが。
どんな「美的な何か」にしたかというと
ということで、「美しさは愛に通じる」。
悪い男に他人への思いやりを発生させることもあり得る、という話でした。
アルバフィカにとっては、自分のことを必死に愛して追い求めてくるミーノスに、愛情を感じないではいられなくなるのではないかと思いました。
「美的なもの」を追求すると愛に繋がる、という話を書いてみたかったです。
ただまあ、今となっては、まったくこの着想と構想が物語の中で表現できていなくて、企画倒れ感が激しくて、出来はよくないなあ…と思っています。
もろもろ至らぬ作品ですが、もしご興味を持っていただけたら、お笑いの種としててでも、ご高覧願えましたら幸いです。