ミアルバ二次創作小説『Mademoiselle Albafica.』#1解説

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UnsplashRegina Milyutinaが撮影した写真

  

パリ、ベル・エポック、そして“彼女”──アルバフィカのもうひとつの肖像

 今回は「アルバフィカの女性化」設定と、「舞台を20世紀初頭のパリへ置き換え」して書いた異色作品**『Mademoiselle Albafica.』**のご紹介です。
 LCのアルバフィカは「毒の血のために他人に触れられない」ことが特色です。一方で、「触れ合いたい」もまた彼の真の願いとして作中で描かれています。そのために二次創作にしたときに、彼の願いを叶えるとすると、恋愛物語の中では「性愛に至る」となります。
 そのため、「アルバフィカはいかにして他人と性愛に至り、そして家族になったか」を書くというのが今作の試みです。家族を得ることもまた、アルバフィカの願いだからです。


 また、アルバフィカを女性化した理由は、私の私的な事情です。性愛を描くときに、男性同士だと想像しきれない点が多く、話の展開がうまくつくれないためです。あまり女性的な人物にはしないように気をつけたつもりですが、キャラ改変には違いありません。申し訳なく思っています。

 舞台が20世紀初頭の理由は、ベルエポック時代の小説を読んでいたからです。時代考証はあやふやにしかできていないのですが、そんな事情からでした。


 当初は長編アイディアのさわりのつもりでした。結局短編を連作して中編になり、そのせいで全体を通した主題の展開があまりうまく行ってないです。そのため「短編」の区切りで作品紹介を行います。
 


「見ることの罪」と、美の被膜をめぐる物語

それはたった半日で終わってしまった初恋だった。

 美しさとは、見られることで完成するものなのか。
 そして、美しいがゆえに“見られすぎてしまった者”は、その後どう生きるべきなのか。

 『Mademoiselle Albafica.』のは、パリの芸術雑誌に掲載された一枚の写真──それを見た「シオン(=私)」の初恋の痛みから始まり、「見ること」と「見られること」にまつわる暴力性を、静かに、しかし抜き差しならない輪郭で描き出す作品である。

  


1. 彼女は写真の中にいた──美の受難者としてのアルバフィカ嬢

 本作の幕開けは、シオンが芸術雑誌に掲載されたアルバフィカの写真と批評に出会い、一目で心を奪われる場面である。

 「アルバフィカ」は、誌面に掲載され記事のつくりが示す通り、ある意味「フィクション化された存在」であり、「美術批評」をする「Mademoiselle(令嬢)」の仮構がかけられた純粋なイメージとして最初に提示される。
 だがその「純粋さ」こそが問題である。彼女はすでに、「撮られる」「飾られる」「見られる」ことによって、美の受難者となっているのだ。

 この時点で、アルバフィカは絵画のように鑑賞される対象であり、彼女自身の内面はまったく語られない。
 にもかかわらず、シオンは彼女に恋をする──しかも、それは批評文の内容と、写真の佇まいの双方に対して。つまりこれは「知性」と「美」に同時に恋をした、という構図でもある。

   


2. 「見る」という罪──マグダラのマリアと公衆のまなざし

 この美しさは、すぐに他者のまなざしによって汚される。
 タブロイド紙による「アルバフィカ嬢の醜聞」は、彼女が恋愛関係にあるとされる貴族階級の裁判官ミーノスの写真と共に報じられる。だがそこにあるのは、「真実」ではない──彼女が「見られた」ことの代償として貼られたラベルである。

 「マリア・マグダレナ」──この名を、シオンはアルバフィカに重ねる。
 カラヴァッジョの名画の引用に始まり、聖書的な「罪の女」像への結びつけがなされることで、アルバフィカは“見られることによって罪にされる”存在として、読者の前に立ち現れる。

 ここには、「美しいというだけで他人の心を動かし、罪を着せられる女性」という古典的な構図がある。しかし本作は、それを悲劇的メロドラマとしてではなく、冷静な自覚とともに語る。

  


3. 批評とポートレート──作品の被膜に触れられない主人公

 作中、シオンはアルバフィカの写真と批評に心を動かされるが、実際の彼女に会うことはできない。
これは一貫して、「見る/見られる」の非対称性を物語る構造でもある。

 注目すべきは、「写真」も「批評文」も、それ自体が“作品”であるという点だ。
 つまり、アルバフィカが美術批評家であるという設定そのものが、彼女を「他者の作品の解説者」という立場に置きながら、逆に彼女自身が“作品化”されてしまっているという二重性を示している。

 ここで彼女が語る批評とは、本来であれば「他者の作品を見て、理解し、言葉を与える」営みのはずだ。
 しかし本作では、アルバフィカ自身が“言葉を与えられる側”に回っており、彼女の批評よりもその姿が大きく掲載されるというレイアウトに、メディアにおける美の消費構造が見え隠れする。

   


4. 本作における「嘘」──現実への静かな抵抗

 物語の終盤、シオンはタブロイド紙の報道に「これは嘘かもしれない」と思いながらも、「そうでなかった時に、立ち直れるとは思えない」と自己防衛的に切り捨てる。

 これは失恋のショックというよりも、真実を確かめる手段を持たない者が、信じるに足る現実を失った瞬間の態度だ。

 「信じる」ことの不可能性。
 「見る」ことの暴力性。
 そして、「修復」という技術に身を置くシオンが、自分の壊れた感情をどうにも修復できないという逆説──この三層の対比が、作品全体に繊細な陰影を与えている。

   


総評:沈黙のポートレートとしての美──鑑賞されるという呪い

Mademoiselle Albafica.』は、派手な展開や感情の爆発を排しつつも、極めて豊かなテーマ性を内包した短編である。
中でも、以下の点は特に際立っている:

  • 「見る/見られる」の構造の非対称性
  • 美しさの被膜に取り憑かれた者たちの静かな受難
  • メディアとまなざしの倫理性
  • 芸術を志す者にとっての“見ること”の責任

 「アルバフィカ」は、作中で一言も発さない。だがその“沈黙”こそが、まるで絵画のようなこの短編の「余白」であり、「物言わぬ痛み」の核心なのである。

   


📚 こんな読者におすすめ

  • 耽美的な感性と構造的な読解を両立して楽しみたい方
  • フィクションにおける「まなざしの暴力」を考えたい方
  • 芸術とメディアの倫理的交差点に関心がある方

 短くも深い、美の「封印」の物語。
 その肖像は、あなたの心にも静かに焼きつくはずです。


◆ 本文はこちらから読めます(Pixiv)

👉 Mademoiselle Albafica.』(Pixiv)

 見ることは、所有することではない。
 けれど、心を奪われた者は、なぜかそれを「失った」と感じるのです。
 ──その美しさは、触れられぬまま封じられた肖像でした。

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